名古屋点訳ネットワーク主催の講演会を受講しました。
講師は、元東日本大震災 視覚障害者支援対策本部事務局長の加藤俊和先生。加藤先生は、日本点字委員会事務局委員や日本漢点字協会理事など歴任されていて、個人的にもいろいろ教えていただいていましたが、震災についてのお話をお聴きするのは初めてです。
以下、私が印象に残ったことを、薄れないうちに列挙します。
テレビで報道される復興については、ほんの僅かで、大半はあまり変化はない。
テレビでは、勇気を与えるため、復興できたケースを賢明に探しているのが実情。
阪神淡路大震災は、店が早期に復興、開店できたが、東日本大震災の被災地は農山漁村が多く、家は高台にあって無事でも、万屋は低地で壊滅していて、日用品を買えないので戻れない人も多い。
阪神淡路大震災は早朝で家族一緒だったのに対し、東日本大震災は昼間で仕事や学校に出ていた人も多く、近所の人に助けられなかった人が死んでいる。
防災リュックを持ち出すのはまず無理。視覚障害者が手探りで探そうとするとけがをする。徒歩圏(2キロ、20分)の距離を、リュックを背負って津波、水害、火事から逃げるのは大変。
私の自宅から避難所の中学校までも、早足で歩いて20分くらいかかります。ので、リュックを背負って逃げるのは無理だと思いました。
水や食料は避難所にあるので、常備薬だけを持ち出す(とくに眼圧を下げるための目薬はすぐには手に入らない)。
過酷なのはトイレ。普段は自分で用を足せる人も避難所では援助が必要。
避難所の壁際は先に避難した人たちにとられていて、視覚障害者は位置がつかみにくい中央しか場所をとれなかった。
また、トイレなどに行く通路も変わる。衝立ができたことで、周囲の人に声をかけにくくなる。水分を控えるため体調を崩す人も。
館内放送がうるさいという声が出て、張り紙による時間変更がわからず、食料を受け取れなかった人も。
視覚障害を知られると、どんな目に遭うかわからないので、隠していた人も。
最近始まった要援護者登録も同意が必要だが、弱者だと判ると泥棒に入られるのではという心配から、登録を拒否するケースも。
コミュニケーション支援には点訳・音訳指導員は派遣できても、ガイドヘルパーは派遣できない。
最後に加藤先生が「復興が進んでいない歩道に黄色の点字ブロックがまぶしく輝いて見えた」とおっしゃったのが心に響きました。
抜けていることがあれば、コメントお願いします。
2013年03月10日
大災害時の視覚障害者の過酷な生活と必要な支援〜東日本大震災で露わになった課題
posted by 平瀬 徹 at 23:41| Comment(0)
| 福祉・ボランティア
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